平成4年、だったのですね


ちりとてちん」の時代設定は、いつ? 携帯電話も使ってないし、奈津子さん(原沙知絵)も原稿をファックスで送っているし。

と、長らく悩んでおりましたが、よそさんのブログではすでに解明ずみだったのですね。


第6週「蛙の子は帰る」にて。草々(青木崇高)がA子(佐藤めぐみ)にフラれ。心配したB子(貫地谷しほり)が草々を壁ごしに見ると、壁掛けカレンダーには、

「1992年」

とありました。
今から15年前の設定だったのですね。

平成4年といえば。有効求人倍率が1.0を割りこみ、大蔵省が都市銀行不良債権が12.3兆円にのぼると発表し。流行語は、「複合不況」に「カード破産」。
つまり、暗ーい時代の幕開けだったわけです。



さて演芸界に目を転じますと。

吉本興業のHPによれば、

1992年(平成4年) 製作部東京連絡所を「東京支社」とする


つまり、関西演芸界の雄が本格的に東京進出した年なのです。
ちなみに若手芸人の養成所「吉本総合芸能学院」が1982年の大阪校(第1期生は、トミーズ、ダウンタウン、ハイヒール)に続いて、東京校を開校させたのは3年後、1995年のことでした。
こんな時代背景を考えると、天狗芸能の会長(竜雷太)が、「これからは落語なんかより、漫才や」と電話口でほえていた理由がよくわかります。


もうひとつエピソードを。
やはり1992年の夏。
ひとりの青年が大阪にやってきました。おおよそ、落語を聴くという環境においては、B子とは比べものにならないくらい縁遠かったのですが。
桂枝雀の英語落語をサンフランシスコで聴き、衝撃をうけたビル・クラウリーさん(1968年生まれ)。名門スタンフォード大学で国際政治を学ぶ学生でした。

来日して英語落語にトライし、ビデオを見てのお稽古、また枝雀のアドバイスも受けて、「狸の賽(さいころ)」「饅頭こわい」などをレパートリーにします。

日本には都合7年間滞在。その間、枝雀の海外公演に欠かせぬ存在となります。英語落語家としてはもちろんのこと、タレントとしても活躍。NHK教育テレビの英語教育番組で講師もつとめました。

身長184cmのクラウリーさんが、落語をする上でとにかく困ったことは? 落語を稽古する前に、まずこちらの練習を始めたのは……、
正座だったそうです。


(注) このエピソードは、上田文世・著「笑わせて笑わせて 桂枝雀」(2003年・淡交社)を参考にさせていただきました。

笑わせて笑わせて桂枝雀

笑わせて笑わせて桂枝雀